競馬マニアからすると、いい名馬だったそうですよ。
戦績は朝日杯三歳ステークス・皐月賞・東京優駿(日本ダービー)など、10戦10勝(7レコード)。デビュー当時の登録名は「パーフェクト」であり、デビュー戦を8馬身差のレコード勝ちし、圧倒的なその強さに「菊池寛の夢が実る時が来た」と言う意味で「トキノミノル」という名に改められた(現在は一度馬名を登録すると変更はできないが、当時は可能であった)。「トキノ」とは馬主でもあった菊池寛の冠名である。菊池寛は永田と親交があったが、この時にはすでに亡くなっていた。
その後皐月賞や東京優駿でもレコード勝ちをする。二着馬との差が最も縮まったのが東京優駿の時の1馬身半で、それ以外のレースは全て二馬身以上の差をつける圧勝だった。皐月賞の単勝支持率73.3%は、2007年現在でも史上1位である。また、慢性的な膝の疾患や裂蹄を抱えていたため、最後のレースとなった東京優駿では爪と蹄鉄の間にフェルトを挟んで出走した。そのあまりの強さに、アメリカ遠征のプランもあがったほどであった。
三冠確実とも言われていたが、東京優駿の17日後の1951年6月20日に破傷風を発症し死亡。
逸話
東京優駿優勝後、関係者がコース内で記念撮影をしていたところ、スタンドの柵が壊れ、大勢の観客が馬場内に入って記念撮影に納まった。この光景を大川慶次郎は「競馬が大衆化した瞬間」であったと述懐している。
現在でも本馬に付いて回る『幻の馬』という異名は、少女小説作家で馬主でもあった吉屋信子が寄せた追悼文「初出走以来10戦10勝、目指す日本ダービーに勝って忽然と死んでいったが、あれはダービーをとる為に産まれた幻の馬だ」に由来する。「幻の三冠馬」や「幻の○○馬(○○はレース名)」という肩書きを持つ馬は数多くいるが、「幻の馬」という肩書きはトキノミノルに対してしか使われない。1955年には馬主である永田の手によって映画『幻の馬』も製作された。
また、馬主の永田も破傷風を発症した際、「ダービーの賞金を全て使ってもいいから治してくれ」と医者に頼み込んだのも有名な話。
死因となった破傷風にいては、現在ではウマ用ワクチンが広く使用されているが、当時はヒト用のものさえ日本には存在せず、命を落とすこととなってしまった。
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